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ママはどこ?
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| 羅織香さん |
羅織香さんの娘、開心ちゃん ママにキッスしたいときは、ママの写真をキッスしている。 |
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| 開心ちゃんが赤ちゃんの頃にお爺さんと一緒の写真 |
開心ちゃんの部屋の一部 |
三歳の黄開心ちゃんは、ママに会いたがります。母の羅織香さんは、広州市の黄浦戒毒センターで拷問をうけ死亡し、父の黄国華は逮捕と拷問から逃げるために路上生活をしていました。
羅さんは広東省の広州市の住民であり、河北省の武漢大学を卒業してから、技師として働いていました。彼女は、1996年から法輪功を修煉し、職場では、親切で真面目な人として評判されました。中央政府が法輪功を禁止すると、彼女は夫の黄国華と一緒に法輪功の修煉の権利を求めに北京に行きました。その後、夫婦二人は何回も逮捕、留置、拷問されました。
2001年5月、羅さんは、娘の開心ちゃんを生みましたが、再逮捕と拷問から逃がれるために、仕方なく、三ヶ月の娘を義理の母に頼んで、路上生活を始めました。地元政府は羅さんを逮捕者のリストに載せて、通報者に三万元の奨励金を与えるポスターを作りました。夫は広州市の華都労働収容所から釈放された後、妻の羅さんと一緒に路上生活を始めました。
2002年11月、地元の警察は夫婦二人を逮捕し、夫は再び華都労働収容所に入れられました。羅さんは当時妊娠三か月であることを確認されたので、釈放されましたが、地元の「610事務所」は彼女を再逮捕し、洗脳させようと広州市の黄浦戒毒センターに入れました。羅さんはセンターで抗議のために断食をしたので、拷問され、2002年11月30日、警察の監禁のままで、病院に運ばれ、頭の傷の治療を受けました。
2002年12月1日、羅さんの家族に、彼女が病院に運ばれ、瀕死状態になったという知らせが届きました。12月5日、義理の母は開心ちゃんを連れて、広州市に行きましたが、羅さんはお腹の中にいる赤ちゃんと共にすでに亡くなっていました。羅さんは当時29歳でした。羅さんは顔が酷く歪んでいました。地元の政府は拷問を隠すために、三階から飛び降りて、自殺したと主張しました。羅さんは死ぬ前に、抗議のために七日間の断食をしていたので、体が弱り、歩けなかったし、三人も彼女を監視し、トイレにもついてくるのに、建物から飛び降りて自殺できるなんてあり得ない事でしょう。彼女の遺体から、傷は、頭部にのみあると分かりました。もし三階から飛び降りたのなら、体にも傷があるはずです。
羅さんの家族は火葬を断って、死体検査を求めましたが、地元の政府は家族を脅迫し、羅さんの夫をだまして、火葬の承諾書にサインをさせました。羅さんの義理の両親は収入がないので、生活保護を申し込みましたが、断わられたので、開心ちゃんを連れて四ヶ月以上の路上生活をしました。
夫は羅さんが死亡して数か月後に釈放されると、再逮捕と拷問から逃がれるために路上生活をしました。羅さんの両親も法輪功学習者であるために、留置され拷問されました。警察は一か月の拷問後、彼らの持っている現金を全部奪い取ってから、彼らを釈放しました。
三つにもならない開心ちゃんは、現在お祖父さんとお祖母さんと一緒に、山東省のリンチュウ県ルージャー村で暮らしています。泥で作ったレンガの住宅で、天井には一メートルほどの割れ目があります。開心ちゃんは、ママに会いたがって、ママの写真にキッスし、お祖母さんとお祖父さんに、「私は、ママを見た、ママはとても綺麗いで、よく私に会いに来る」と言っています。
団河強制労働収容所で若いママと八ヶ月赤ちゃんが拷問
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| 王麗萱と息子の孟コちゃん |
王麗萱さんは、山東省煙台市、チーシァースコ県ナンコ村の住民であり、1999年7月20日以降、彼女は、政府に法輪功への弾圧をやめさせるように八回も北京に陳情しに行きました。2000年10月21日、彼女と八ヶ月の孟コちゃんは、北京へ行く途中で北京にいる山東事務所の公務員に逮捕され、北京団河強制労働収容所に留置されました。
2000年11月7日、王さんと息子は強制労働収容所で拷問されて死亡しました。王さんの家族は死亡の通知状を受け取ってから北京に着いてみると、王さんと息子の死体が既に冷凍されていると分かりました。検死官の検査によって、王さんは首と関節が折れ、頭蓋骨が凹んで、腰には注射された跡が残っていました。息子の孟コちゃんの足首には深い傷があり、頭には黒と青の斑点、鼻には血が付いていました。それらの傷は、強制労働収容所の看守が、孟ちゃんの足首に手錠をかけ、頭が下方の逆吊りで、吊上げた時につけられたと思われます。
王さんの家族も迫害を受けました。父の王貴海、母の李秀香、煙台大学の大学生の妹の王麗恵は、法輪功学習者であるために、山東省淄博市にいる王村労働キャンプに入れられ、三年間の懲役を言い渡されました。王さんの弟の王旭超は、済南農業大学の学生であり、迫害によって、貧困状態に陥りました。
両親から引き離された四歳の子供
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| 虎虎君 |
虎虎
くんは四歳で、北京に住んでいます。父の余超さんは、三十歳のネットワークの技術者で、母の許トンさんは三十二歳で講師として、清華大学の微電子学院に勤めています。
2000年4月25日、父の余超さんは、政府に法輪功への弾圧をやめさせようと天安門広場に行ったため、一ヶ月留置され、それから一年間強制労働収容所に服役させられました。そのあと、彼は強制労働収容所の外で服役することが許されました。
1999年10月27日、母の許トンさんは、法輪功への弾圧をやめさせるために天安門広場に陳情に行って、警察に酷く殴られ、北京公安局第七支局に留置されました。それから何の法的な手続きもないままに一年半の懲役を言い渡され、刑務所に入れられました。2001年の夏に釈放された後、彼女は刑務所で受けた拷問を暴露する文章を書き、法輪功を修煉し続ける「厳粛声明」を発表し、そして、再逮捕と更に酷い迫害から逃げるために、彼女と夫と息子の虎虎くんは、家を出ました。
警察は一家三人を追跡し、虎虎くんのお祖母さんとお祖父さんと家まで監視されました。この小さな家庭にとっては逃げる道は狭いものであろう。2002年8月、国家安全局と北京
「610」事務所[1]は虎虎くんの両親を逮捕した後、虎虎くんは両親から離なれて、友人の家で暮らしていました。
--------------------------- [1] (注)「610」事務所:法輪功を絶滅するために特別に設立された国家機関であり、法輪功学習者を洗脳し、政治局と司法部門を含む中国共産党のあらゆる行政機関より大きな権力を持っている。
十歳の子供は学校から辞めさせられ、路上生活を送りました
十歳の黄村林は、男の子で、遼寧省の鉄林市に住んでいましたが、現在、母の金紅玉と共に路上生活を送っています。母の金紅玉は、法輪功への弾圧をやめさせるために北京へ陳情に行った後、北京の西城区警察局と鉄林市の英州警察局に四回にわたって留置されました。金さんは、一年間の強制労働懲役を言い渡され、「五千元」の罰金を支払わされて、強制労働収容所の外での服役が許されました。1999年、村林くんが6歳のとき、母、叔母、お祖母さんが法輪功の学習者であるため逮捕された後、子供の面倒を見る人がいなくなりました。同居しているお祖父さんは病気で苦しんでいたため、生活はとても大変なものでした。
2002年2月、英州区チァイカ通り交番の責任者の馬という警察は、数名の警官を連れて、金さんと親戚の家に騒乱しに来ました。警察は何度も金さんが経営していたレストランのお客さんを追い出し、何の許可もないままに、レストランを捜査し、閉店させてしまいました。金さんは更に酷い迫害から逃げるために、村林くんを連れて家を出てから、親子はお金に困るようになり、生活がさらに苦しくなりました。
2002年5月、鉄林市の英州区交番の警察の余得海、孫利中、楊東昇は、村林くんを見つけ、彼を誘拐しました。警察たちは母の金さんを逮捕するために彼を尋問しましたが、村林くんは教えませんでした。警察の孫利中は子供の首を掴み、持ち上げながら「教えなければ降ろさないぞ。子供に対しても、なんとでもできるぞ。教えなければ刑務所に入れるぞ」と脅迫しました。余得海は子供に「もし我々に母と叔母がどこにいるか教えれば逮捕しないと保証するが、もし教えなければ、彼女たちを逮捕した時に、彼女たちを殴る」と言いました。警察は、夜になっても子供といえども寝かせません。
村林くんは三日間の拷問で、心身ともに傷ついてしまいました。
そのあと、父の姉が彼を家に連れていき、小学校に通わせましたが、警察の孫利中と楊東昇は村林くんを手放しませんでした。警察たちは毎日彼のあとについて学校へ行き、学校から家についてきました。それだけではなく、警察は叔母の電話も盗聴しました。学校は警察の圧力で村林くんを辞めさせました。警察の圧力によって叔母が病気になったが、他の親戚は彼の面倒見る勇気がないので、村林くんは現在母と路上生活をしていて、とても貧しいのです。
ママも死んだかな?
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| 左写真:邹栄発。右写真:父の周松トオと母の張雲鶴 |
邹栄発(女の子)は1999年11月に生まれ、ちょうど父の邹松涛は法輪功への弾圧を制止しょうと北京へ陳情に行ったために、留置されていました。1999年12月末に釈放されましたが、その後、彼は法輪功学習者であるため、何回も刑務所に入れられました。
タイシ警察局の局長の公国権は、邹さんを鉄の椅子に手錠をかけると、局長は靴で彼を殴り、邹さんは頭から出血し、顔が二倍ぐらい腫れ上がって、二十分ほど意識を失っていました。
2000年7月、邹さんは青島市強制労働収容所に入れられ、それから彼は、ジーボ市黄村強制労働収容所に転送されました。2000年11月3日、警察の鄭万心、紹鄭華は周さんを審問室に入れて、電気棒で彼を痛めつけ、二時間もしないうちに周さんは拷問で死亡しました。栄発ちゃんは父を失った。
邹さんの死亡のあと、警察は栄発の母の張雲鶴さんを監視していました。2002年2月警察は張さんを逮捕し、彼女を青島市にある大山留置センターに入れました。警察は張さんに関する情報を家族に隠し、栄発ちゃんはこのようにして母から離されました
栄発ちゃんは六十を越したお祖母さんと一緒に暮らしていましたが、義理の息子の死亡と娘の逮捕のショックを受けて、お祖母さんは病気になると、2001年8月に亡くなりました。
栄発ちゃんは最愛の父、母そしてお祖母さんを失いました。彼女は家族に会いたくなると、小さいスツールに登って、父の遺骨を入れた箱にキッスしています。
陳英ちゃんの母の告白
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| 陳英 |
1999年8月19日、中国中央政府テレビ放送局は黒竜江省佳木斯市に住んでいる高校一年女子生徒に関して報道しました。それによると、女子高校生の陳英さんは、何回も自殺未遂のあと、やっと列車から飛び降り、死亡したそうです。しかし、テレビの報道は全く嘘である。
陳英さんは、1996年5月から法輪功を修煉し始めました。心身ともに健康であり、優しい性格をもっている優れた生徒であり、周りの人を熱心に助けていました。学校では、彼女はクラスの副組長であり、部活動でも活躍していました。彼女は教科科目とスポーツに優れていたので、エリート生徒として選ばれ、沢山の賞を取っていました。先生と学生の間に良い評判も得ている。家庭では、彼女はお母さんをよく助け、近所の人々にも人気がありました。
1999年7月22日、中国中央政府テレビ放送局は、法輪功を禁止することを声明し、陳英さんはその日の夜、法輪功を修煉する権利を守るために北京へ陳情に行きました。7月29日、彼女の親戚は天安門で彼女を見つけ、列車で彼女を佳木斯に連れて帰りました。列車が秦皇島に着き、親戚が買い物をしていたとき、陳英さんは列車から降りました。親戚は秦皇島鉄道スティションに連絡し、助けを求めましたが、陳英さんは見つかりませんでした。そのあと、陳英さんは北京で逮捕され、列車乗務員に監視されて列車に乗せられました。二時間の停車中に、彼女は逃げました。8月2日、彼女は再び北京で逮捕され、北京にある佳木斯市事務所に入れられたが、翌日、逃げだしました。
8月4日、陳英さんの父と学校の校長と保安担当者は彼女を探しに北京へ来ました。
一週間かかっても彼女は見つかりませんでした。北京にいる佳木斯市事務所は陳英さんの家族と校長に見つけると、すぐ連絡すると約束しました。8月15日、陳英さんは北京で逮捕されましたが、家庭と学校に知らせはありませんでした。8月16日、陳英さんは、監禁されて佳木斯へ行く列車に乗せられ、午後2時34分に陳英さんはトイレを行くと、窓から飛び降りました。列車は完全に止るまでに10キロも走った。列車乗務担当者と李という警察は陳英さんを見つけ、彼女をフンルン市のフンルン病院に運びました。
8月16日午後5時ころ、一人の警察は私を仕事場から警察署に連れて行くと、もし法輪功の修煉を続ければ娘に会わせないと言われました。私は、娘に会いたかったので、もう法輪功をやめたと嘘をつきました。警察は娘がすでに死んでいると教えませんでした。8月17日夜9時ころ、フンルン市のフンルン病院に着いてから、李という警察が私に、娘の回復は無理なので、8月16日に酸素供応を止めたと教えました。彼らは、娘を火葬場へ運んで冷凍しました。
8月18日、私は娘の遺体と会うために、仕方がなく再び嘘をつきました。中国中央政府テレビ放送局を代表する天津テレビ放送局のインタビューで、私は、完全に法輪功をやめたと言いました。その日、私は、警察が付き添って火葬場に娘の遺体を見に行きましたが、火葬を見ることは許されなくて、午後2時フンルン市から離れるようにと強制された。
私は真実を告白しなければいけません。私がマスコミレポートと警察に話したことは全部嘘であり、「山江夜間新聞」に載せた記事も嘘です。
2000年3月29日、私は娘が生前やったことと同じように法輪功のために北京へ陳情に行きました。私は瀋陽から北京への列車の中で逮捕され、留置センターに入れられました。
2000年4月3日、私は職場の人と警察に監禁され、佳木斯へ戻されました。留置センターで47日間にわたり監禁されました。
十代の子供は毒葯を飲ませ、七年間懲役を言い渡され
李明偉(男の子)は、山東省アンチュウ市、実験中学校の学生である。
2001年3月の早朝、李君はまだ寝ていたのに、市の職員と警察と合わせて八人が彼と彼の母を逮捕しに彼の家に来ました。12歳の妹は一人で家に残されました。彼と母の二人はアンチュウ市で留置された。アンチュウ市の職員の宋宝傑は、法輪功学習者の監禁と洗脳のために二部屋を用意しました。
李明偉君は、断食で不法な留置に抗議しました。五日後、彼は学校に戻されましたが、小部屋に監禁されました。アンチュウ市の魏という職員の命令に従って、学校は李君をアンチュウ市市民病院につれて行き、罰として強制的に注射しました。李君は不明な薬を注射されてから全身麻痺になりました。そのあと、病院の人は管を李くんの胃に入れるために鼻から差し込もうとしましたが、管が大きすぎで入りませんでした。拷問中に李君は、口が血だらけになっていました。
学校の職員たちは、政府に法輪功への弾圧を制止するための陳情をしないように李明偉に声明を書かせようとしました。もし書かなければ、小部屋に閉じ込め、学級に戻さないと脅迫しました。一人の先生は昼の間、彼を監視し、二人の生徒は夜間彼を監視していました。李君は、洗脳書物や映像を見させられ、法輪功を罵れと強制されました。
2001年7月、李明偉は、迫害を制止するために再び北京へ陳情に行きました。彼は逮捕され、学校に戻されると、学校で、夏休みの全期間中、監禁されました。李明偉は再び断食で抗議し、釈放されました。
ある日、李君は、学級から職員事務室に呼び出され、先生たち数人が彼を囲み、言葉で彼を攻撃し、教頭の江東破は、李君の顔を十回以上殴りました。
酷い拷問から逃げるために、李君は家と学校から出て、見つからないようにあちこちで路上生活をしていました。李明偉君に関する最新情報では、警察は彼を見つけ、アンチュウ市の洗脳センターに入れ、その後、彼に七年間の懲役を言い渡しました。
ママは拷問で死亡、父は行方不明、子供は孤児院に入れられた
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| 王小東、34歳、中学校の講師拷問で死亡した |
劉西峰、王さんの夫行方不明 |
子供の劉響、11歳現在孤児院に入る |
法輪功学習者である劉西峰さんと王小東さんは共に中国東北の出身であり、共に深セイナント中学校の教師です。息子の劉響は11歳です。
1999年7月20日、法輪功への弾圧が始まった後、劉さんは正義を求めるために北京へ陳情しに行きました。各地方の警察は法輪功学習者の陳情を制止したので、警察から避けるために、劉さんは45日もかかって歩いて北京へ行きました。彼は旅に苦労し、足は靴が入らないほど腫れていました。
2000年警察は劉の奥さんである王さんを逮捕し、法輪功のために北京へ陳情しに行った理由で彼女を二年間強制労働キャンプに入れました。王さんは南山留置センターと三水強制労働キャンプで酷い拷問を受けました。彼女は拷問中に瀕死状態になったので治療するために釈放されました。そのあと、彼女は法輪功を修煉し続けると、みるみる回復しました。
夫婦二人とも陳情しに行った事で学校から辞めさせられた。警察からの騒乱を逃げるために、家族三人はあちこちに隠れていたので、息子の教育も中止させました。
2002年1月ごろ、劉さんと他の法輪功学習者たちは、中国国家安全局の罠にはまり、ブジ、深セイで逮捕されました。深セイ国家安全局のショウジチュウという人は劉さんを拷問すると警察に命令しました。そのあと、劉さんは深セイ市武装警察病院(広東省国境巡回武装警察病院とも呼ばれ)に運ばれました。この病院は深セイ'610事務所'の命令に基づいて法輪功学習者を医療虐待する場所であり、一年間ですでに何十人もの法輪功学習者たちが断食の抗議でこの病院に運ばれ、強制的に注射をされたり、あるいは無理やりに食べ物を入れられました。
2002年3月22日ごろ、劉さんは断食で抗議していた時に、強制的に食べ物を入れるために彼は内部医療部門に属する310室に運ばれました。警察担当者のショウジチュウは廊下で「この豚を死ぬまで注射してやろう、人体解剖実験をやってみて、見学したいならばだれでも来てかまわない」と怒鳴りつけました。そのあと、深いセイ市竜山安全局から来た張と唐建峰という看守は、管を劉さんに入れました。二人の看守は全く医療知識をもたず、間違った医療操作の最中に、劉さんは呼吸が出来なくなりそうになり、全身が痙攣し、危険状態になりました。看守は彼に心臓病患者のモニターをつけ、緊急室に運ぶと、担当医師の劉さん(女性、40歳過ぎ)は彼の両腕に静脈注射をしました。そのような状態なのに、有能な看護婦さんに任せるのではなく、二人の看守が注射を習いたいと主張すると、看護長の劉明はそれを認め、勤務中の耿潔という看護婦さんに注射指導をすることを命令しました。二人の看守は、劉さんの腕に二十回以上も針を刺し、たくさんの血管を破りました。この注射練習が十分間以上にかかったすえ、劉さんは、非常に不規則な心拍を起こし、呼吸困難になり、全身が脳卒中のようになった。
2002年3月30日、午後一時三十分ころ、劉さんは内部医療部門に属する329室で再び虐待を受けました。警察は彼を苦しめるために濃いアルコールを彼の鼻から入れようと管を二回も出し入れしました。劉さんはすでに十六日間も、何も、飲まず食わずでした。警察の王偉は四個の手足枷を出し、劉さんの両手と両足をベッドで固定し、注射器一杯もあるアルコールを鼻管に入れ、そのあと、竜山安全局から来たもう一人の警察の宋時超は前回の二倍のアルコールを再び劉さんの鼻から入れました。一時間の内に、警察は劉さんの鼻から二回も管を入れ、二回もアルコールを入れました。第二回目に管を出した時は、管は血だらけでした。
そのあと、警察が居眠りしている間に、劉さんは病院から都合よく逃げだしました。
2002年9月22日、劉さんと奥さんの王さんは再び逮捕されました
現在は、劉さんに関する情報が全くありませんが、王さんは深セイ南山留置センターに数ヶ月断食抗議をして、拷問によって死亡しました。警察は11歳の息子を深セイ孤児院に入れたそうです。
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高校生は拷問から逃げるために家から出た
私は17歳の高校生で、2001年7月、学校で大事な試験の前に、担任の先生たちや学校の職員たちに何回も職員室に呼び出され、試験に出ている法輪功に関する問題に正直に答えないように言われました。しかし、私は嘘をつきたくないので、私は正直に答えました。そのため、教育委員会の職員姚と鄭先生は、私を強制労働キャンプに入れようと二回にわたって脅迫しました。
彼らは私の家まで来たので、私は逮捕と拷問から逃げるために家から出ました。職員とサンジェ県の警察は私の両親に、もし私を渡さなければ、両親を逮捕し、家の土地を没収すると脅迫しました。職員の東西全と王九兵は私の両親を殴りました。2001年9月3日、私の両親は迫害から逃げるために、家から出て、私達一家は路上生活を始めました。私はホームレスになってから学校に通うことができなくなりました。
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